アムザ理事会

フォギーマウンテンブレイクダウン

2011年02月19日
 アムザ理事会は、ロシアン・レストラン・ロゴスキーにて、各事案や訴訟について3時間半の有意義な懇親会となりました。
 鮭のルイベの餡掛け揚げがうまかった。これはメニューにない予約特別料理。なんと、ひとり2100円で、酒代は全て某弁護士の奢りとなりました。

 弁護士からは、アメリカの裁判と比較したユニークな視点が提供されました。

 日本の裁判で、検察が全ての証拠を開示しないのは、日本独特の「官を信用する」という風土が、制度の基本的精神となっているため。つまり、「検察官がインチキするはずがない」という盲信がある。
 
 検察官には強大な権力があるが、アメリカでは、「強大な権力をもたせると必ず暴走するからチェック・システムが必須である」という考え方があるが、日本では個人の責任のみに追いやってしまっている。
 つまり、日本では「どうしてあんな検察官がいるんだ?」という話になる。
「おかしなのがいるのがあたりまえだろ。だから、監視していないといけないのだ」という考え方を常識として持っているのか、いないのか。

 また、日本の裁判官は、司法試験−修習後、すぐに裁判官となり、弁護士がどのような状況で何を考えて訴訟を行なっているのかを知らないままでいる。アメリカでは、弁護士を経てから裁判官になる。

 アメリカの陪審員制度が成り立つのは、「事実認定と法的判断は異なる」ということを国民が常識として持っているから。
 アメリカンフットボールで、審判が無造作にボールを置くのは、裁判で言う事実認定。それを何ヤード何インチ進んだかを精密に測るのは、法的判断。
 日本人の感覚ならば、審判のボールの置きかたに厳密性を求める。しかし、アメリカ人は全く気にしない。
 アメリカの陪審員制度では、民間人の裁判員のみが事実認定を行ない、法的判断は裁判官のみが行ない、裁判官は事実認定を疑うことができない。
 
 日本では、事実認定に専門性を求める。いわば、専門家に頼るのが常識という形。言葉を変えれば「官」に頼るということ。だから、一般人には「難しい」「できない」という感覚がぬぐいきれない。
 そのような前提をもっていては、裁判員制度は成立しない。いきおい、裁判官の意思が重視されるだけの結果となり、裁判員が審議に参加する意味はなくなる。

 このように審判に対する考え方が異なっていることは、裁判員制度の大きな問題点である。「死刑判決は苦しい」などという情緒に流れる報道は、あまりにもレベルが低すぎる。

 裁判員制度は、「裁判はこんなにもいい加減なのだ」ということを周知するのに役立つ、という僕の意見には、先生も強く同意されました。
 F理事からは、アメリカの裁判を視察をしたときに、裁判官と一般人の敷居のなさに衝撃を受けた話がありました。日本人は裁判官を奉りすぎている。だから、裁判の不正を裁けないということ。

 また、検察、被告の双方の同意が必要な証拠があるのは、証拠が、直接証拠と伝聞証拠に分かれているから。裁判には、直接証拠しか出せない。聞いて書いた文章のような証拠は、双方の同意が必要であるということ。