勝った。
昨日、11年間の裁判が、和解成立となりました。
百折不撓の原告の執念が、アンタッチャブルの壁を崩しました。
勝訴的和解ではなく、勝利和解と考えます。
まだお若かった娘さんの名誉を回復することができ、
これでやっと御遺骨を納めることができそうです。
13回忌です。
決して望んだままの結果とは、はるかに遠くとも、
仕事を終えた深夜毎夜に、難解な医学書や医学論文と格闘し、
東京、大阪、京都と何度も足を運び、
収入の大部分を注ぎ込み、
多くのみなさまに、多大なる支援を頂き、
原告は、世の中の理不尽に、せめて一矢を報いることができたと考えます。
身体を壊してまで、這いつくばって前進し続けた原告に、
最大限の敬意を表します。
この責任の一端は、弁護士にあります。
この責任の一端は、裁判の仕組みにあります。
この責任の一端は、警察と検察にあります。
この責任の一端は、裁判官にあります。
そして、この責任の一端は、日本国民のひとりひとりにあることでしょう。
地獄への道には、偏狭な善意が敷きつめられているのです。
地獄への道には、正義の善意を敷きつめてやろうではないですか。
裁判収支は、原告の赤字でしょう。
事件から12年。提訴から11年間です。
正確には、この間、ふたつの裁判があり、ひとつは最高裁棄却で敗訴が確定しました。
事件当時に生まれた子どもは、小学校6年生になっているでしょう。
ここまで苦しまなくてはならない裁判とは、いったい何なのか。
ちなみに、このブログの一部が、またしても、被告から裁判所に提出されました。
御礼申し上げます。
まあ。ほとんどの読者諸氏には、どこが? と不思議に思われるでしょうけど、被告が戦々恐々となる理由があるのです。
この事件では、和解成立を尊重して、被告及び被告代理人の実名などを書く予定はありませんので、御安心下さいませ。
また、当ブログでは、これまでは諸般の事情を考慮しておりましたが、
ご期待にお応えして、態度の不謹慎な裁判官は実名で書きます。
身に覚えのある判事は、どうぞ律してください。
自殺者が出るような裁判をやってもらっては困ります。
文句を言わないのは、心証を悪くするからと、戦略として遠慮しているだけのことです。
ここで指している出来事は、被告病院の前で焼身自殺をされた「最先端医療の闇」の冨田善弘氏のことではありません。
名古屋裁判所での出来事です。名古屋裁判所の裁判官が話を聞いてくれない、と、原告が自殺した事件のことです。
自殺するのは当人の勝手でしょう。残された人には自殺した本当の理由はわかりません。しかし、周囲の人がそう推測せざるを得ないと確信を持つことはあるでしょう。きっと大きな一因になっているでしょう。
裁判官はカウンセラーではありません。裁判では「自分の話を聞いてくれない」ということは、山ほどあります。
けれど、常識で考えてみてください。裁判は、双方の主張に耳を傾ける場ではないのでしょうか。現状がそうではないから、司法は政府の手先にすぎず、三権分立など噴飯ものだと言えるのです。
裁判は、裁判官の勝手なんです。もういい加減、裁判官を信用するのをやめなければいけません。
そういう裁判官や検事がいるのは、「信じられない」などと驚く必要はありません。それは、あたりまえのことなんです。だから、市民がいかに監視するかが重要なのです。だから、市民がいかに裁判官の人事権をもつかが急務なののです。裁判官の忌避を申し立てたところで、まともにとりあげられることはないでしょう。そんな法律は無意味です。
よいですか? 諸君。だから、実力行使が不可欠なのです。
世の中には、裁判に対して、多くの誤解があります。
現実の紛争は、判決によっては解決されないものです。
訴訟は、紛争解決ではなく、戦闘方法のひとつでしかないでしょう。
制度的にも法学説上でも、裁判による紛争解決は、本当は、紛争の緩和ないし変形であって、紛争の調整ないし処理にすぎないと指摘されています。
解決するのは、我々自身です。
この状況を見よ。
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/hosp/1296019818/
訴訟だ、訴訟だと、すぐに穏健な手段に頼るのはやめましょう。
我々は、あらゆる手段によって闘わなければなりません。
そうして自分の人生を、世の中の発展に投資するのです。
そういう人生があります。
百折不撓。
神風(かむかぜ)の伊勢の海の 大石にや
い這(は)ひもとほる 細螺(しただみ)の
細螺の 吾子(あご)よ吾子よ 細螺の
い這ひもとほり 撃ちてし止まむ 撃ちてし止まむ
〜日本書紀