医療裁判の特殊性(3)

CapHerlock2010-04-03

医療裁判の特殊性(3)

【医療裁判の価値は、勝敗ではなく、生き方にある】

 原告にとって、裁判で重要なのは、過誤を第三者である裁判所が認めるかどうかである。普通は、被告は負けを認めない。負けても認めない。
 でも、世の中ではなにかと判決が大きく影響するような気がする。
 なんとか裁判所にビシッと判決を決めてもらいたい。

 ところが、裁判の中味は、過誤そのものを認定するものではない。そのために、たとえ勝っても納得しない原告がいる。負けたらなおさらである。
 だから、医療過誤では多くの原告が本を出版するのだ。こんなひどい状況になっている。みんな、これでいいのか? と。
 納得してたら、誰があんなもの書くかい。本を書くって、大変なんよ。自費出版なら百万円の金がかかる。(安くやるなら、印刷屋に頼めばいいだけなんだが、普通の人はそのあたりの仕組みを知らない)本が売れたら印税が入って儲かる? 馬鹿なこといっちゃあいかん。全日本でいったい何人が印税で生活しているね。まじめなノンフィクションを書いてる人って、1年以上かかって作った本でも、著名な版元から出してもらって、なんとか1〜2週間丸善に並んだとしても、対価は数十万円。投入した交通費にもなりゃしない。その本持ってあちこちまわって、一生懸命どうでもいい記事を書いて食いつないでいるのだ。

 覆水盆にかえらず。死んだ人が生き返るわけではない。だからこそ、そうして闘うことが大事なんです。
 たいていの人には、責任追及は裁判でしかやれない。相手を話し合いの場に引っ張り出すこともできない。だから、裁判なんです。社会的で紳士的解決が裁判なんです。当事者にとっては、解決なんて決してないんだけどね。

 そういう意味があるからこそ、裁判は自分自身で闘わないといけない。弁護士まかせでは、いけない。自分で医学の勉強をしましょう。法律(裁判の段取りと書面の作り方)の勉強をしましょう。

 医療裁判をやる人って、どんな状況にいるかと考えると、これは大変なこと。一家の働き手がいなくなった人、高額な医療費で借金まみれになった人、収入が途絶えた人。身体が不自由になった人。看護介護で毎日の生活が精一杯の人。
 しかも、裁判を起こしたら、たいてい身内は反対するから、離婚だって珍しくはない。近所の噂にもなるかもしれない。そんな精神的圧力のなかで、わずかな時間を使って勉強などできるかいな。医学書なんて、どうやって読むね。数行で頭が痛くなるわい。必死で読んでも、なにが書いてあるのか、さっぱりわからんわい。

 それでも、僕は言う。勉強しましょう。そうしないと、裁判には勝っても負けても、納得がゆかないことになります。わからなくてもいい。カルテの記号が少しでもわかれば良い。前進しようとすることが、人生には大事だと思うからです。そうすれば、弁護士だって心が動く。優秀な頭脳を使ってくれる。
 不満かもしれないが、きっと納得しやすくなる。ひとつの結果をつくることができる。

 過誤は、わかる。裁判をやっていく過程で、必ず詳細がわかってくる。と、言いたいところだが、それでは悲惨なことになる。
 ほとんどの事件では、おそらく過誤は、大まかにはわかっている。わかっているから提訴するのだ。そして裁判中に過誤の詳細へどんどん迫る。でも、立証ができない。そのうちに時間切れで結審を迎えることになる。裁判官が、「もう待てません」と言ったら終わりです。

 提訴前には、過誤事項の羅列だけではなく、立証準備がおよそ出来ていないとマズイ。立証準備とは、鑑定医師の確保のことである。
 事件の詳細を把握するのは、困難ではある。しかし、どのみちやらなければならないことです。

 そうこうしているうちに、裁判をやる前と比べたら、原告は、はるかにおだやかな気持ちになるでしょう。内容によっては、より一層、ドタマにくるかも知れんが。
 ともかく、裁判に代わる制度を作るまでは、それがひとつの道です。
 逆に言えば、過誤についての話し合いの場の制度を作ること、法整備をすることが必要だということ。僕はよく比較してみるが、労働事件だったら団体交渉権がある。裁判になる前に団交ができる。

 そうして全力で闘った原告は、その後、数年は腑抜けになります。何もしたくなくなります。裁判のことなど考えるのも嫌です。そういうもんです。
 過激派が活動をやめるときって、そういうときでしょう。もういい。できるだけのことはやった。これ以上はもう走れない。

 裁判をやることで、大きな犠牲を払うことになります。
 金銭的圧迫、友人知人との不仲、裁判をやっていたせいで、できなかったたくさんのこと。流れ去った人生の時間。

 まあ。良いではないですか。ゴールに着くことだけが人生ではありません。そりゃあ、うまくできなかったかもしれない。でも、精一杯やった。これが自分の限界だった。そう思って死ねれば幸せでしょう。次に生まれてきたときは、もう少しうまくやればいいだけのことです。自殺せずにすんだだけ、大成功ってもんです。裁判とは、そんな生きざまの舞台だと僕は考えるのです。

 裁判は、天下の正義を実現する場ではない。どんな判決が出たって、それで世の中が変わるわけではない。判決が変えるのではなく、判決を受けて、誰かが世の中を実際に変えるときに、はじめて変わる。 
 自衛隊は、憲法違反です。誰がどう考えたって違法だ。しかし、自衛隊は現実にはある。それと同じ。

 医療過誤裁判は、普通の裁判とは違う。原告が知りたい過誤は、裁判の主題ではない。
 だから、裁判は、自らの疑問と異議申立に、自らが努力する場だと思うのです。そして、自分が正しいと考えることを、世の中に向かって大声で叫ぶ行為です。裁判は、そういう人の生き方を問われる行為なのだと思う。
 個なくして全体はありえない。個人なくして、社会はありえない。声をあげることを躊躇する理由はない。

 そういう覚悟がない人は、裁判をやったって、単なる事務手続きみたいなもの。全く価値がないとは言わない。それも次のステージへの布石でしょうから。