医療裁判の特殊性(1)
【医療事件では、過誤と結果責任が直結していない】
普通の事件では、何かをやったために損害があった場合、その行為と結果との間には、密接な関係がある。
泥棒が、よそのお家で金を盗んだら、そのお家の金はなくなる。強盗に殴られた人が怪我をした。強盗がいなければ、怪我はしなかった。
それらの行為がなければ、損害は起きなかったわけだ。
だから、その行為をやったのか、やらなかったのか、が問題になる。
ところが医療裁判では、「その行為をしなくても、損害はあった」という状況がある。
患者はもともと病気だったのだ。過誤がなければ、治ったかどうかは、神のみぞ知ること。
医療過誤事件の場合、過誤と結果は、自明(あたりまえ)ではない。
医療事件では80%以上の蓋然性(予測可能性)でもって、過誤がなければ病気が治ったことを証明しなければならない。
過誤と結果(損害)の因果関係を立証しない限り、過誤があっても判決は敗訴となる。死んじゃったのは、過誤のせいじゃないよ。過誤があろうとなかろうと、結果は変わらなかったという話。
医療裁判では、過誤と結果との因果関係の立証責任は、原告側にある。それを立証しないと、過誤による損害賠償は認められない。
ここで裁判所が考えるのは、過誤そのものではなく、過誤による結果である金銭的責任についてである。損害賠償請求事件というのはそういうものだ。
しかし、和解は、争いを納めればいい。だから、裁判所が過誤の度合いを検討して、和解案に反映させる。
つまり、医療裁判における和解は、ただの和解ではなく、医療過誤認定の限界点でもあるということになる。
そもそも医療過誤というのは日常的にある。そして、たいていは、どこかの時点で大事に至らずセーフとなる。
裁判になる事例というのは、セーフティーが全く機能せず、過誤の連続があった場合が多い。
ここで気づけば、あのときに気づけば、というチャンスが全部スルーされて、これでもか、これでもかと不運が連発する。そして、とりかえしのつかない状態になる。
手術中に研修医がつまずいて、手をついた先に切り開いた内臓がベチョッとあったとか、勢いよく転んで、手術野に頭からグチョッと突っ込んだとか、そういう話は語り継がれるものだ。それでも、なんともなければ、執刀医に怒られてバカタレで終わる。患者には知らせない。過誤ではあるが、賠償責任が問われる裁判にはならない。手術中の秘密だからではない。結果的になんともなかったからだ。
裁判は、過誤そのものではなく、結果を問うものなのだ。
労働裁判なら、不当解雇は賠償責任に直結する。
「解雇がなくても、本人が仕事をしたくなくなって会社を辞めたかもしれない。ひょっとたら、親戚がやってるお店を手伝うために、会社を辞めたかもしれない」などという微小な可能性を細かく検討することはない。
けれど、通常、医療裁判で本丸激戦地となるのは、この可能性。
もちろん、労働事件でも、病気がからんだ事件は、同じような争点になる。パワハラによる鬱病やセクハラによる心身症の労災認定や労働裁判などである。
医療裁判が原告にとって圧倒的に不利な理由のひとつは、さまざまな可能性が考えられる結果と過誤の関係を立証しなければならないことである。そして、この立証がまたとんでもない状況に原告を追い込むことになる。医学文献ではなく、医師意見書(私的鑑定書)が必要だからです。