愛しているって何だろう

「巻子の言霊」柳原三佳著(2010年講談社

 交通事故被害者のノンフィクションだ。妻が交通事故で全身麻痺となった夫婦の生活を描きながら、私たちに、どう生きるべきかを突きつける。
 まぶたをぱちぱちと動かすことで綴る、1日に数文字だけ会話。極限状態に追い込まれた日常がそこにある。
 愛しているって何だろう。それがわからなくなった人へ、肉を削ぎ落とし、愛情をぎりぎりまで純化せざるを得なくなった夫婦が、ひとつの解答をはっきりと示している。


 とはいっても、美しい物語だとばかりは言っていられない。
 交通事故被害者が、その後、誰によって、何によって、どのように苦しめられていくのか。その現実を、被害者である松尾夫婦の生活を通して、具体的に事実に即して書いている。


 他人の人生をめちゃめちゃにした加害者の責任は、社会的制裁である刑事罰と、金銭的賠償である損害賠償金、人倫にのっとった心から謝罪があげられるだろう。それが責任をとるということの中味とされている。


 ところが、交通事故の場合は、執行猶予がつけば、普通に生活をしていられる。被害者の苦しみに比して、刑事罰は実に軽い。ここに十分でない法律がある。


 また、損害賠償金は、将来に労働で得たであろう財産(逸失利益)と医療(介護)費、慰謝料である。しかし、加害者が「無制限」の保険に入っていながら、保険会社が徹底的に値切り倒す。医療費をまかなうには、あまりにも安すぎる。
 被害者は、加害者に対して損害賠償請求の民事裁判を起こすしかない。でも、法廷に出てくるのは加害者ではない。賠償金をケチりたい保険屋である。ここにも、責任の履行を妨害する法的慣習がある。
 被害者は、金が欲しいのではない。金が必要なのだ。それは医療政策の問題である。高額医療や在宅医療、保険制度などの医療体制の不備が、医療難民を生み出し、病人や障害者、貧乏人は「早く死ね」という形になっている。松尾夫婦が長く暮らしたアメリカとの大きな違いである。


 そして、最後の責任である「心からの謝罪」には、何の義務も何の条件も、どこにも何も定められてはいない。


 さらに、現実的な課題として、延命治療の是非に投げかけるリビング・ウィル(生前の遺言書)制度や、加害者責任の許しを考えるアーミッシュのゲラッセンハイトという「従順に受け入れる」思想にも触れている。


 これらを、松尾幸郎、巻子夫妻が、いわば「人生を代償」にして語っている。誰にでも起こり得る事故がみせる現実を、知らぬ存ぜぬでは罪悪だろう。加害者が責任をとらないのは、誰のせいなのか。読んで損はないと思う。


 惜しむべくは、レイアウト・デザインで、あとわずかに文字が大きければ、もっとよかったと思う。文字のインクも黒色だと決まっているわけではないのだから、不況にあえぐ出版社は、もっと真剣に取り組むべきだろう。