再び闇サイト殺人事件・神田司の死刑について



「いちご白書」を通じて世界中で言われていたことではあるが、もうこれで戦う必要のない最後の戦いが必要である。それが党の役割ではなかろうか。


闇サイト殺人事件・神田司の死刑について

 小説家の目からみた犯人の神田司は、世間で言われるような極悪非道の男ではない。結果的に、極悪非道であっただけだ。
 嘘つきで、自分のことしか考えない人間だが、そんなやつはいくらでもいる。共感を土台にした人間関係を、うまく作れない人もたくさんいる。

 彼には、感情がないと言えばその通りだが、そのぶん、彼は非常に理性的であった。だからこそ、残虐な殺人ができたのだ。
 殺したのは、顔を見られたせいではないのか。そのようなことも神田司ブログで書いていた。顔を見られたから殺した。彼には歯止めがないから、殺すしかないということになった。
 犯罪計画は、雑で甘さがあった。覆面をきちんと用意すべきだった。用意すれば、殺人はなかった。
 殺したのは、他のふたりがいたせいだろう。本当は、あんなアホなやつらと組まずに、自分だけ、さっさと遁走すればよかった。それが彼にはできなかったのだ。利益計算を間違えたのだ。

 彼は、社会にその居場所さえあれば、ひとかどの仕事を成した人物であろうと思う。そこらのボケナスより、よほど良い仕事をしただろうと思う。
 僕がそう思う理由は、はなはだ心もとないが、二つある。
 ひとつは、彼が新聞拡張員の仕事中の出来事を書いていたことだ。階段から足を滑らせて、捻挫だか腰痛だかを起こした話だ。あの仕事をどれだけの長い期間やっていたかは知らない。しかし、僕はそのエピソードをみて、案外と、真面目にやっていたのだろうと思った。

 僕は、似たような仕事を3年ほどしたことがある。単純な仕事だが、そこらの奴には、絶対にできやしない厳しい仕事だ。あの仕事は、尋常なものではない。僕は、全国一位になったことがあるから、よくわかる。たぶん、神田はそこそこ真面目にやっていただろう。この「そこそこ」というのはほとんど異常だ。普通の人には「そこそこ」もできやしない。
 僕が弁護士なら、そういう事実を丁寧に掘り起こして弁護をする。

 二つ目は、確かめたわけではないが、傍聴席には、同僚の姿が複数いたのではないかということ。違うかもしれなかったが。なぜ、わざわざ早くから長い列に並んで、籤を引いてまで法廷を見ようとしたのか。本当にどうしようもない男なら、誰も見にきたりはしないのではないか。

 神田の彼女もひどい仕打ちを受けていたようだが、法廷にいたことだろう。あのブログの管理人だ。一緒に傍聴した僕の友人たちも管理人はどの人かと推理していたし、友人たちは女性だったので、磯谷ママさんから鋭い視線を受けたそうだ。僕は黙っていたが、ずっとある女性が目に止まっていた。たぶん、そうだろうと思っている。彼女は、ひっそりと法廷を見ていた。僕は勘違いをしていたのかも知れないが。

 僕は、被害者の個人的怨念から死刑にするしかないと考えているし、それが社会形成に必要だと考えている。
 でも、世の多くの人は、どういうつもりで死刑に賛成しているのだろうかと、ふと思う。
 多くの人の感情は、目に見えるものや理解しやすいものにしか向いていないのだが、彼を死刑にするならば、処刑すべき政治家は、たくさんいるはずである。みんな、それを願っているのではないか。

 共犯の川岸は、派遣は馬鹿らしくてやってられない、と言ったそうだ。川岸はどうしようもないアホだが、その点については、彼はまったく正常である。
 彼の命を奪っていたものは、その派遣会社であり、派遣先企業であったのだ。そのような単純なことがわからずに、彼は、弱い女性に向かって強盗殺人と強姦未遂をやった。彼は、奪われる側から奪う側になったのだ。この責任は、誰がとるべきなのか。本人だけに責任をとらせて終わりでいいのか。

 みんな、苦しくとも、まじめに仕事しているのだ、という人がいる。そうではなくて、それこそが根本的に間違った考え方なのだ。単にまじめに仕事をするほうが、略奪者に与する愚かで浅はかな所作なのだ。
 どうしてあなた方は自ら進んで奴隷でいたいのか。どうして時間と労力、精神力という命そのものを奪われて平気なのか。どうして勇敢なる戦士の足を引っ張るのか。

 汚職は死刑である。僕は、そういうあたりまえの話が大切なのだと思う。
 神田を死刑にするということは、そういうことなのだと思う。
 神田を死刑にしないということは、テロも罪人追求もしないということなる。無期懲役がどうのという刑罰制度は、運用の問題にすぎない。

 また、テロによる脅迫は、悪いことだと考える人がいるが、決してそうではない。
 対立するがごとくに見える、民主主義は大事だなどという美辞麗句に、だまされてはいけない。現状の民主主義は、一部の略奪者を守るシステムにほかならない。そんなものは唾棄しなければならない。
 どこが主権在民か。無産の民には、主権などどこにもありはしないではないか。
 労働者階級が力を持つのは、組織力によってである。
 その組織力が足りない場合は、テロリズムしかない。勝たねばならないからである。
 テロは同じ民衆の力なのだ。貧者の戦争なのだ。テロこそが、改革に残された唯一の力なのだ。ゼネストが打てないなら、残るはテロしかないではないか。
 
 但し、無差別はいけない。標的はきちんと選ぶことが肝心だ。
 もういい加減、愚かな大衆に媚びを売ることはない。テロを起爆剤にして前進させるということは、ひとつの道である。

 秋葉原事件マツダの自動車殺戮も、テロではない。あの事件には少なくない共感が聞こえた。当然であろう。しかし、そこで、世の中の仕組みに目を向けなければならない。それを行うのは左翼の任務である。それがあって、はじめて、あの事件には共感はできないと断言できるのである。

 三里塚闘争(成田空港問題)でも、拳銃やバズーカ砲の提供の申し出があったという。あるところにはあるのである。
 自分で爆弾を作ろうとしてたセクトがあるが、なぜ、出来合いを買ってこなかったのか。僕は不思議でしようがない。確かに、時限爆弾は流通量が少ないだろうが、時限爆弾を採用したために、三菱重工爆破は結果として失敗したのではないのか。あれは遠隔操作システムにすべきであった。
 手榴弾迫撃砲なら買えただろう。警官を襲って銃を奪うなどと、ややこしいことをする必要などなかっただろうに。ここらが雑で甘い無計画性というものだ。そして、その流通ルートに接触しなかったことこそが、細かな差異にこだわる左翼の致命傷であったと思う。それは、自らの党に自信がないからである。
 フォルクスワーゲンナチスが作ったものだから悪い、などというのは、観念に支配されている証左ではないのか。左翼の主流は唯物論ではなかったのか。それは、目的のためには手段を選ばないという「厳選の仕方」が偏狭であったということを意味する。同様にして、反革命を標榜する内ゲバこそが、反革命なのある。本末転倒とはこのことである。

 人民の武器にこだわるなら、貧者の核兵器を考えることになると思うが、それでは人倫に反する。だから、オウム真理教は、ライフルまで量産しながら、世間から見放なされたのだ。あの事件を見て、ああ情けない、と嘆いた左翼人は僕だけではあるまい。

 戦争アレルギーはいけない。敵は殺すものだ。殺されてもしかたがないことをしているのだ。そういう問題に、第二次大戦での日本や諸外国の悲劇を重ねるから、問題が見えなくなる。それはすり替えの詭弁だ。戦争がいけないのはわかりきった話ではないか。
 そうではなくて、処刑すべき階層とは戦争が避けられないということなのだ。
 左翼は、その主張を絶対に忘れてはいけない。これを忘れたら、敵を殺すことはできない。それでは力は減衰する。だから、権力になめられる。

 わが国を築くために徴兵制は必須である。成人式には拳銃を。一家にひとつ自動小銃を。そして、自衛隊でしっかり扱いを練習しなければならない。それが政権奪取の内戦への最短コースだ。

 また、忘れてはならないのは、ソビエト連邦の成立は無血革命であったということだ。流血は、そのあとの残党処理だ。赤軍は官軍だったのである。
 銃口こそが、支配者に抗する最高最善最短の手段なのである。このことをごまかしてはいけない。

 昨日は仕事中にデパス1錠。これはなかなか良い。
 ベンザリンが効いてきた。これから数時間、幸せになろうと思う。

 一昨日は、朝だけでなく、丸一日の抗議行動だった。まさか、そんなに続くとは思わず、前夜はあまり寝ていなかったのだ。もう体力の限界だったから、途中で戦列を離れた。こんなことでは、革命も小説もできやしない。せいぜ自爆テロがいいところだ。
 あんなもの、機関銃を向ければ、話は早かったのはまちがいない。どうしてそれをしてはいけないのか、僕にはわからない。
 団交にヤクザを投入してくる企業もいるし、ヤクザが仕切っている会社もあるのだ。そんな連中は全員殺したほうが良いに決まっている。話せばわかるなどという能天気な期待は現状認識を誤っている。問答無用が基本である。こんな明解なことすらができない国は異常である。

 死刑はいけない、という問題の立て方は間違っている。そんなもの、人は人を殺してはいけないに決まっているではないか。そういう大衆を馬鹿にしたような堂々巡りの議論の立て方ではなく、そうではなくて、死刑にすべきであるという課題の立てかたこそが建設的思考といえるものなのである。