それはそれで大変だった

 この歌の時代とは世代が異なるが、僕が東京を闊歩していた時代を思い浮かべる。

 このところ、ついに疲れてきたのか、シナプスの制御が難しくなって、思考が妙に暴走する。昔からその傾向はあったのだが、最近はうまくコントロールできなくなっている。いったい何の回路に乗っかっているのだろうか。

 仕事中の「ながら」は、大嫌いで耐えられなかったのだが、汚染に我慢しているうちに慣れてきてしまった。
 それどころか、音楽を聞きながらでないと、あるいはデパスを飲みながらでないと作業ができなくなってきた。ホームページを作ったり、資料整理のような単純作業をしているせいなのだろうか。そういえば、単純作業には、歌詞のない軽音楽が能率をあげると聞いたことがある。

 先日、昔のことを書いて、いろいろ思い出したせいだろうか。
 ふいに、大学時代の知人を検索してみた。何枚もの顔写真とともに彼女の名前がヒットしてきた。業界のことは知らないが、そこまで行っていたのかと驚いた。結婚していても、芸能などでは旧姓を名乗ることがある。やっぱり綺麗な人だったからな。気も少し強かったしな。なんとか居場所を作ったようだ。
 僕の悲劇的なスーツを褒めてくれた市ヶ谷の才女は、どこでどうしているのだろうか。珍しい名前だったけども、ヒットしたのは国文学雑誌に収録されていた大学の卒論だけだった。塀が長く続いている函館の大きなお家の子だった。何か筆名で小説でも書いているのではないかとも思うが、もうそんな馬鹿なことはしていないか。
 そういえば、僕は女の子に奢るより、奢ってもらうことのほうが多かったような記憶がある。考えてみればちょっと不思議なことだ。
 クリスマスにサンタの靴をくれた人は、どうしているだろう。雑司ヶ谷の彼女のいたアパートは、数年前にも、まだあった。信じられないが、そこだけ時間が止まったような様子だった。郵便受けには、これまた変わった家主の苗字が読み取れた。驚いたなんてものじゃあない。声をあげそうになった。記憶が一気に甦えった。あのときのままだったのだ。それはタイムスリップそのものだった。
 まあ。みんな。うまくやっていることだろう。
 ゼミナールの恩師の退官記念に、論文集をつくった話がある。ずっとほったらかしにしていたが催促してみた。2年以上前のことだから、もう残っていない可能性もある。まさか、書いておきながら読みたくない人がいるとは、思っていないだろう。
 同窓会に出席しなかった奴というのは、苦しい状況にいるものだ。
 僕は高校の同窓会には出席したが、その後の誘いには決してゆかなかった。なんで出席者の3分の1くらいが教員なのか。口を聞くのも嫌だ。もっとも、僕だって教員の時期はあったのだが。



この最後に写っている人は、いったい誰なんだろう。

10年経てば、夢をみることは少なくなる。
20年経てば、夢を見てもなんとか耐えられるようになる。

磯谷ママさんは、きっといつも夢にうなされていることだろう。
だから、世の中との戦いが終わることはないだろうと思う。
終わることはないだろうが、もしも、少しでも静かに眺めることができる日がくれば、それはきっと良いことだろうと思う。