平和なように見えるが現実は違う

先日の抗議行動。
なんでこんなことやらんといかんのかと思う。

裁判官を拉致したほうが手っとり早いのではないだろうかとも思うが、まあ、これなら実に平和で牧歌的だ。

少し昔なら、みんな、拉致やっていたそうだし、今でも、そういうことやる奴はいっぱいいる。言わないだけだ。

国をあげてやってるところさえあるが、それは目的が違うだろう。
正常な神経の持ち主なら、特殊部隊を送り込んで、戦争状態に突入すべき事態のはずだ。日本国は腑抜けと思われてもしかたがない。

僕だけでなく、多くの人が、裁判官には遠慮する。ひょっとしたら、日本の裁判官は、外国映画でみる牧師さんみたいな地位なのではなかろうか。一歩後ろに下がって意見を言わないようにする。まあ、多少は言う奴はいるが。

それは、法というものを大事にしているせいだろう。
しかし、立法の過程をみれば、そんなものどうだっていいではないかと思える。

法は、正義と真実を実現するものではない。
国家の都合の良いように決めたルールにすぎない。
だから、裁判所=裁判官はいくらでも人倫を踏み外す。

考えてみよう。
裁判所=裁判官は、僕たちの代理人にすぎないはずだ。
人倫を踏み外すならば、実力で勝敗を決めるのみなのだ。

諸君。そのときには、武器を持て! 
殺せ。殺せ。ぶち殺せ。
躊躇する必要など全くない。歴史はそうやって変わってきたのだ。


街宣では、みんなまじめに丁寧にしゃべっている。
以前に、メチャクチャ頭にきてた奴が、相手を名指しで、強烈に罵っていたことがある。
誰も注意しないから、よその労組の人だったが、僕が注意した。
なんだ。そういうことを言ってはいかんのか、と逆に質問されたので、言うのはかまわないが、それなりの覚悟はしてくれ、と言っておいた。

そういう僕も、どうも街宣は苦手で、以前に労働問題でしゃべったら、警察を呼ばれてしまった。ヤクザみたいな連中だからと思っていたので、向かってきたら殺そうと決めていたが、まさか110番されるとは思わなかった。殺すとは言わなかったつもりだが、似たようなことをマイクで言ったせいだろう。

かつて、友人は、今日は機動隊をひとり殺す、と演説して拍手喝采を浴びたそうだ。温厚な僕としては、それは言い過ぎではなかろうかと思うが、みんな、そう言いたかったのだ。みんな、そうしたかったんだ。
現場とは、そういうものだ。

前に書いたかもしれないが、僕のまわりでは何人かが殺されている。殺した側もいる。僕にも二度ほど警官が捜査のために会いにきたことがある。でも、僕は何も知らなかった。
それらの犯人はつかまってはいない。
思想犯でも政治犯でもない。

殺される人は、それなりの筋の人間だろう、と、普通は思うだろう。ところが、殺された人は、チンピラでもヤクザでもない。そして、犯人は、ヤクザと、たぶん外国のマフィアだろうと思う。

で、殺人犯なんてのは、チンピラかヤクザだ、と、普通は思うだろう。ところが、そうではない。
ごく普通の人が、そういうことをやる。まさかと思う人がやる。

だから、発覚した殺人事件のうち、犯人がつかまっているのは、半分だけなのだ。

そういう日本なのだということを、知らなければいけないと思う。



※日本のカウンセラーには、ヘタレが多い。
テロ防止のためのアメリカ方式(カウンセリングで知った相談者の重犯罪についての通報義務)をそのまんま受け取っている馬鹿なカウンセラーがたくさんいる。一度、学会で提起したいと思っているが、会費を納めるのも出席もままならない生活をしているので、どうしようもない。
殺人の告白を受けて当局に通報するような奴は、カウンセラーになるなと言いたい。
そして、僕は、通報してはいないし、そのつもりはない。