映画「立ち上がるイラク帰還兵」について

 現実の体験とその視覚像、それを映像にして表現する、そして表現を受容する。これらの間には距離がある。それぞれ距離をつなぐことが、作家の役割である。
 そこには、映像技術と、被写体の表象と作者の心象、そして鑑賞者の心象が介入する。
 それらの介入によって、なんらかの意識が生成される故に、その文章は、その写真は、その映像は、作品と呼ばれるのであって、この構造に無自覚であるものは作品とは呼べず、そこには、ただの記号が、ただの色が、ただの光があるにすぎないのである。
 
 逆に言えば、生成される意識内容を象徴化する作業が、いわゆる創造と呼ばれるものである。
 その創造の内実とは、作者の視点であり、映像制作でいえば、具体的には構成であろう。
 そうして、作品は、現実と人間を結びつける。
 このとき、作品が、作者の痕跡をとどめなくなったら、それは作品ではない。

 僕は、芸術には素人であるし、趣味の領域を出ない者であるが、このような僕の芸術論は、おそらくは、あたりまえの地点であって、このように言葉にするかどうかは別として、これに無自覚である人は、現実の前で被写体に溺れていると言えるだろう。
 また、僕はかつて映像職人であった。そこには技術があってはじめて実現できるものがある。
 写真は、シャッターを押せば、誰でも写真が撮れる。ビデオもカメラを操作すれば、誰にでも映せる。しかし、文字を書くだけで、小説ができるわけではないのと同じように、そこには、技術が必要なのであるのである。これはどのような創作についても言えることである。ただ、手軽に目の前に「完成品」が現れると、それに気がつかないだけである。
 このふたつの視点から、今回の映画を眺めてみる。

「立ち上がるイラク帰還兵」は、その意味では作品としては失敗しているだろう。その分だけ、「ただの記号が、ただの色が、ただの光がある」にすぎないものとなった。そのために、さして生成される意識はなく、作者の意図は見えなくなっている。

 このような作品が商業的に劇場公開されることに、僕は非常な危機感を覚える。シネマテークは、商業的な劇場ではないのかもしれないが、「立ち上がるイラク帰還兵」が、反権力、あるいは反帝国主義に連なる戦争に反対するという、重要な申し立てを主張する映像であることに、僕は危機感を覚えるのである。これでは闘えない。

 それゆえに、「立ち上がるイラク帰還兵」は、実に惜しい作品であると言える。
 何故、こんなことになってしまったのか。意見する人は、誰もいなかったのだろうか。こんなあたりまえのことに、誰も気づかなかったのだろうか。
 いや。そうではなかろう。みんな、どうして良いのかわからなかったのだろうと思う。
 だったら、わかってる人に聞いてくれよと言いたい。(但し、注意したいのは、プロなら皆わかっているかというと、そうではないということ)

 巷には、映像があふれているが、作品を見る力がそんなにあるとは思えない。そこには、手軽になった映像制作の技術革新が関与しているのだろうと思うし、テレビで垂れ流し映像を見続けているからであろうし、また、映像評論の力のなさなのだろうと思う。
 さらに日本の大衆文化の地平に、芸術に対する無自覚と誤解があるのではなかろうかと思わざるを得ない。それは「映像文化の貧困」と言えるだろう。


「立ち上がるイラク帰還兵」は、構成力が極めて弱い。全く構成されていないと言ってよい。そのために、語るべきことを語らず、語りたいことも語れない作品となっている。
 映像の恐ろしさは、そこにある。映像は、情報量が多い分だけ、作品構成を丁寧に作り込む必要があるのだ。

 技術としての「立ち上がるイラク帰還兵」の失敗を検討したい。
 まず、全体構成が悪い。そもそもチラシを読まなければ意味がわからないという不親切極まりない代物となっている。
 何が言いたかったのか全くわからなかったので、全体構成を細かく指摘することはできないが、作者の主張したいことを文章にしたとき、それが順に映像に置き換えられているのかどうかが要である。
 映像は「説得するもの」である。
「こんなことを見ました。聞きました」だけでは、ほとんどの人が戦場を経験していていない日本人には、共感は難しい。
 この全体構成がしっかりしていないために、インタビューをただ垂れ流すだけの結果となっている。

 次に、細部について検討してみる。
 Ⅰ部「アメリカ帰還兵・イラクに誓う」とⅡ部「戦争を拒否する兵士たち」におよそ30分ずつに分かれているが、Ⅰ部を紹介したチラシには、こうある。
イラクに向かう機中アーロンはその張りつめた心境をこんなふうに書きつづっている。『不安だ。不安が私の喉元に、心臓に居座っている』と。」

 しかしながら、この文章は、映画には全く表現されていない。飛行機ひとつ映っていない。手記ひとつ映っていない。イラクの地図は全編で一回も映っていない。どうして不安なのか、全くわからない状態で放り投げられている。
「一般市民に銃を向けた」その一言だけ? ならば、その切実さだけでもいい。その切実さをどこまで表現する試みをしたのだろうか。僕には、何もしていないとしか見えなかった。
 ナレーションでわずかに触れていただろうか。インタビューで語る瞳に涙があっただろうか。顔に汗なり皺が見えただろうか。その動きは、強調されただろうか。
 つまり、ただ撮っただけでは、その不安は、映像によって表現されているとは言えないのである。

 映画は、会議の壇上でいきなり証言がはじまって、イラクの人と抱き合う。
 よく5W1Hといわれるが、Who(誰が) What(何を) When(いつ) Where(どこで) Why(どうして)How(どのように)、これらが映像では全く説明されていない。
 人物を紹介する事物も、どうして壇上にいるのかも、空も木々も、イラクの風景も、会場の建物概観も看板も、会議の準備も、証言にゆくに至った経緯も、何も写していない。
 さらには、会議だというのに、誰が参加しているのか観客もまともに映っていないことが多い。
 固定カメラ一台であったにしても、音声ラインを引いていれば、途切れることなくケーブルが延びる範囲でどこまででも写すことができる。それが無理ならば、写真を撮らなければならない。会場の天井から、会議のパンフレット、休憩時の食い物、服装、足元。とにかく、いわゆる「遊びカット」をかせがなくてはならない。

 ドキュメントなのだから、全部を用意できなくともよいし、その必要もないが、スーパーやフリップですら処理されていない。きちんと処理されていないと、見ている人には、わけがわからないのである。

 このような基本中の基本が、全編に渡って全く処理されていない。ナレーションと映像がどこまで合致しているかもかなり怪しい。一事が万事である。

 ナレーションでひとこと「戦争」と言ったら、「戦争」が映っていなければならない。「アメリカ」と言ったら、アメリカが映っていなければならない。インタビューの最中もしかり。

 人物の苦悩に迫りたいならば、その人の生活や歩きを撮っていなければならない。
 そう努力しなければ、映像としての表現力は出ない。
 それも不要だというのならば、その語る指先や瞳を、何故アップでとらえないのか。カメラでなめまわさないのか。あるいは、バストアップのフィックスにこだわるならば、不要な世間話を延々と写せばいい。それによって、観客は共感する空き地を得ることができるのである。
 構成をしっかり立てて、焦点を絞っていないから、そういうことができない。

 もちろん、映像は動くパンフレットではない。見る文章でもない。それ以上のものだ。しかし、それすら押さえていないのではお話にならない。
 幼稚園の運動会のパパさんママさんビデオを見ていて楽しいのは、誰もが何がしかの共感を持てるからである。だから、小さな子が走っている場面が映っているだけでおもしろい。だから、垂れ流し映像であっても、それなりの価値があるのである。
 しかし、「立ち上がるイラク帰還兵」は、我々日本人がイラクに共感できるか? 戦争兵士に共感できるか? そういう問題なのである。

 さらに、編集がおかしい。映像のつなぎの基本は、カットつなぎである。それができないのは、自信がなかったのではないかと疑わせる。自信がないのは、構成ができていないせいなのかもしれない。
 さらにどういうわけか、禁じ手であるブラックアウトを多用している。ブラックアウトは終了点だ。タイトルはじめのオープニングでは、まあ、効果を狙う気持ちがわからんでもない。それにしてはフェードが長すぎるのではないかと思ったが。
 だが、本編でブラックアウトを多用するとは、どういうことなのか。僕は仰天してしまった。
 さらに回転ワイプなどもってのほか。僕の目からは、使うべきところでワイプを使わず、使わないほうがよいところでワイプを使っているように思えた。
 失笑を通り越して、僕は怒りを覚えてしまった。故に、全く眠くならなかった。

 作品なのだから何をやってもよい、とは言えるが、他人に見せるものとして、基本は押さえてほしい。 3分間なら、感覚でつなげる。しかし、3分以上なら、構成が必要だ。

 また、絵がないのに、作品を完成させてはならない。絵がないところでは、写真を使っているが、全く何もないままに処理していることが多い。そのわずかな写真も「絵」であるから、僕は問題がないと思うが、そのズームに無意味さを感じたのは1回ではない。1カット、1ズーム、1パーン。映像を編集する上では、全てに意図があるものである。それが自覚されていたとは、とうてい思えなかった。


 貴重な映像を撮った志と努力は、十分に高い評価をして余りあるが、その処理は安易すぎた。構成、撮影、編集、録音。その全ての工程において、崇高な志を無にしている作品であった。僕はこれを映画とは呼びたくはない。

 撮影・監修の木村修氏はよくがんばられた。懸命さがひしひしと感じられたので、僕は観に行った。自主制作の映画を応援したい気持もあった。大阪の第七劇場は満席であったという。名古屋シネマテークでも、平日の昼間だというのに十数人の人が入っていた。

 しかし、上映運動に参戦された全ての人に謹んで申し上げたい。
 映像制作をなめないで頂きたい。
 
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寺西和史裁判官の本。

何故、それが裁判になったのか。僕はそういう話が大事なのだと思う。