判決が延びるのは良いことである

 判決が延びるのは良いことである。
 

 そういう裁判官こそ、出世させるべきである。
 法廷で寝ているような裁判官を出世させるべきである。


 しかし、法廷での態度の悪い裁判官は、減点する必要がある。そういうのがいる。
 アゴに手をあてて、肘をついて、むすっとした表情で証人尋問を聞くなよ。
 少しの間なら、ご愛嬌だが、ずっとそれでは雰囲気が悪い。被告に怒っているのかと思ったが、弁護側でもそうだったから、それが普通だったのだろう。

 文句言ってやろうかと思ったが、まあ、そんなことでクレームをつけては、その裁判官もやりづらいだろう。それこそまじめな裁判官で、連日の残業で疲れていたのかもしれない。傍聴人も偉そうに評論家になってはいけない。 でも、名前は控えておいたから、いつもそうなら本人を呼び出して抗議させてもらう。


 判決が延びるということは、ノルマを達成できなかったわけだが、それは、ひとつひとつの事案を丁寧に審判するならば、当然に、達成できないものなのだ。


 ひとつの事件で、いったいどのくらい書面と証拠書類が出るか。
 机の上に積み重ねると、一面だけでは倒れてくるので、文字通り、山積みになるのだ。
 ページを一枚ずつめくるだけでも、一日では終わらないのではないかとさえ思う。
 しかも、最初から全部自分が担当していればいいが、山積みとなる多くは、転勤となった何人もの裁判官から引き継いでいるものだ。
 想像してみてくれ。これが、ひとりの裁判官につき、200〜300件あるのだ。
 それでもこなせるのは、慣れである。裁判官は、絶対に全部は読んでいない。見ているだけだ。そして、判決文を書くために、重要な部分だけを読む。原告被告の名前も間違えるわけにはゆかない。だから、最終準備書面は、読む。


 かつて僕がある講師をやっていたころ、何百枚という論述式の答案をその日中に採点しなければならないときがあった。当時は、教職だけでなく、さまざまな仕事をかけもちでやっていたから、時間は極めて限られていた。しかも、運悪く、その晩は友人が遊びにきていた。

 答案用紙は、B4の用紙に手書きである。採点方法は部分点の積算である。およそ、及第点は70点あたりに設定し、そこに多くが集中するようにした。積算なので、なかには100点満点のはずが、100点を超える場合もあるが、それは100点とした。
 結局、およそ10秒以内で1枚を採点した。10秒以内というのは、つまりは数秒ということ。それは、文章を読むのではなく、眺めるわけである。見るだけである。読んではいない。5秒くらいのときも頻繁にあったと記憶している。

 全部終わってから、その採点の様子を不審に思った友人が、いい加減なことやっとるなあと、何枚かを抜き出して、声に出して読み上げた。それを聞き終わると、僕は空で点数を言った。
 すると、ほとんどが採点したとおりのズバリか、2、3点違いの近似値であった。

 これには、僕も驚いた。自分で驚いていてはいけないのだが、さすがに驚いた。友人も驚いて、次から次へと読み上げ始めた。
 それが可能であったのは、論述内容が自分の専門であったからだろうし、設問が同じだから解答のストーリーは限られている。
(ただし、点数を書く欄を一カ所だけ間違えた。ひとりが合格で、もうひとりは試験を受けてないので不合格のはずだった。成績表が配られてから、学生から、なんで自分が不合格なのかと言われて気がついた。内心焦りました。学年末で追試さえ終わっていたのだ。あわてて学務に修正を入れ、本来、不合格のはずの学生は、そのまま合格にしておいた)
 そういうものである。

 
 確かに裁判所で扱う事件も、パターンとして似ているものばかりなのだろう。おそらくは、いくつかの類型に分けられるはずだ。そのポイントさえつかめば、見るだけで判断できるわけだ。
 
 裁判書面の慣れというのも大きい。
 僕の作ったサイトの書面だって、まだ表示の修正をしていないが、はじめての人には読みづらいはずだ。意味がつかみにくいところがあると思う。
 パナソニック違法派遣裁判の書面など、正直に言うが、僕は読めなかった。何が書いてあるのか、ほとんどわからなかった。もちろん、大枠での主張はわかるが、もう少し日本語の勉強したほうがいいんじゃないかと、弁護士に言いたいくらいだ。


 審判でパターンが機能するのは、現実としての常識という前提がある。それは、たぶん、双方が嘘はつかないということではなかろうかと思う。加えて、はじめに判決ありきで、どちらかの側を応援しているという姿勢があるのではないかと思う。
 しかし、裁判になる事例のなかには、常識的には考えられないような事件が混ざっている。というか、たいていは片方が嘘をついている(触れていない)ので、妥当性を見極めるのは、けっこうやっかいなことのはずである。

 あれ? おかしいな。何故こんなことを言う? と思ったら最後、その部分を主張している準備書面を探して証拠を読んで、反論を吟味しなくては進まない。
 そうなれば、ノルマなど、こなせないのである。

 さらに、応援すべき側を敗訴させるには、相応の判決文が必要である。
 応援すべき側というのは、司法は国家体制の維持を目的とするという役割をもっているために、世の権力者の側に立っているものだからである。人倫にそって公明正大であるなどというのは、建前であって幻想である。
 しかし、司法は、その建前によって正当性を得ているのであるから、我々には、その建前を現実化してゆく義務がある。このせめぎ合いは不可欠なのである。
 そのような局面と対峙する判決文を書くには、他の判決文の倍以上かかるだろう。時間はどんど過ぎてゆくのである。


 だから、準備書面を本当に読んだのか? と聞きたくなるような判決がある。
 重要なポイントに触れていない判決文は、ぶっ飛ばして処理された事件である。

 最高裁でさえ、裁判官は書面を読んでいない。あたりまえだ。全国から毎日、ばんばん上告されるのだ。まともにやろうとすれば、ものすごい人数がいるはずである。
 珍しく口頭弁論が開かれた最高裁で、弁護士の陳述を、裁判官が一生懸命メモをしていたという。しかし、その弁護士がしゃべった内容は、前もって書面で出してあることばかりなのである。日本の裁判は文書主義だからである。メモをとる必要などないのである。速記録まで作成される。
 つまりは、彼らには、読んでる暇などないのだ。速記録があがるのを待つ余裕などないのだ。聞きながら考えるからメモをするという形があるにしても、必死でメモし続ける必要はないはずなのだ。

 まさか、他の裁判の判決文を書いていたわけではないだろうが、それも怪しいといえば怪しい。