医療事件から12年目

 事件は、平成11年(1999年)だった。
 戦闘中の故、詳細はここには書かない。

 戦況は、原告(遺族)が圧倒的に不利なまま進んできた。
 僕自身も、この闘いに勝利はなく、いかに負けるか、という選択肢しか残っていないと考えていた。アンタッチャブルの岩壁は登攀不可能に思えた。

 しかし、本日、戦況は、奇蹟な大逆転を見せた。
 今回提出した私的鑑定書を、裁判所はさすがに無視できまい。
 ついに、まさかの勝利の兆しが見えてきた。
 みなが顔をほころばせる。

 しかし、同時に僕は、暗澹たる想いに襲われた。
 これまで原告が主張してきたことは、全く同じことなのだ。
 それを、ただ、大権威と実力のある人物が丁寧に論述しただけで、判決が180度変わるであろう裁判とは、いったい何なのか、という疑問を、僕は振りきることができないでいる。
 日本の頂点が論述しないと、正しく裁くことができない裁判とは、いったい何なのか。

 敵地本陣へ一気呵成の大進撃を迎えることができたのは、諦めることなく闘い続けていた原告の力だし、力不足ながらも、しぶとくまとわりつく支援者の力だった。
 今回の意見書を得ることができたのは、さかのぼって振り返ると、支援者のひとりが、ある弁護士の講演を聞いたことが発端となっていたのだ。
 その支援者がいなかったら、どうだというのか。
 その弁護士が、その鑑定者が、いなかったら、どうだというのか。
 裁判を全部やり直せと言いたいくらいだ。

 裁判とは、かくも流動的なものなのだ。
 民事も刑事も同じである。裁判をご存じない人には、にわかには信じられないだろうが、これが裁判なのである。


 12年目の春が、すぐそこまで来ている。
 喫茶店で原告を囲み、ケーキセットで、ささやかな前祝いとした。