オカルトと思想史

Suzanne Vega  Tom's Diner

大昔に作りかけてほったらかしたカードの断片が出てきた。

物事を説明するのではなく、生き生きとした姿から、その精神を自身に作用させる。
などというわけのわからないことが書いてある。

こういう把握の方法は、慣れないと難しい。


物事を再構成するのではなく、
全ての観念を流れ出るままにまかせると、
純粋に芸術的な形態が生まれる……そうだ。

ふむ。絵を描くということは、そういうことなのかとも思う。


これはシュルレアリスムの手法ではないか。


それていて、同時に、こう語る。

観念の中に生きることを中止するために、
形象によって思考しはじめなければならない。


ローザとの交流を前提とすると、これはマルクス主義のことではないか?


否。これは主観主義的認識の根拠ではないか。


ヘーゲルを分岐点として、世界観はキルケゴールマルクスに別れた。
しかし、ヘーゲルのひとつ前、シェリングフィヒテから、もうひとつの認識の地下水脈が流れていた。


どうも、いろいろなことを忘れていていけない。僕の勉学は、身につかなかったということなのだろう。


この流れはギリシア哲学からも辿ることができるのだけど、
ドイツロマン主義観念論は、東洋の仏教と酷似しているはず。
はず、としか僕には言えないところが辛い。


そして、これは自我の存立構造とも一致しているはず。
それは、時間の流れにある意識のあり方の問題。


そうそう。ベルグソンやハイデッカーで、わけがわからなくなった。
個々のごく部分的にはわかったつもりだったが、全体としては把握できない。そうして横道にそれた。横道といっても、もともと僕は哲学ではなく、社会学をやっていたのだけど。

まあ。全体像が把握できないことこそ、力がなかったという証左だろう。
いや。こいつらに限らず、もともとよくわかっていないのだが、こいつらのせいで、さらにわからなくなった。


もう一度、シュタイナーを手立てに読み直さないといけないな。

でも、ひょっとしたら、ここを埋めるのは文学の仕事ではないだろうか。
そして、これはたぶん、人類の文化の問題なのだろうと思う。


ピカソの有名な言葉に「私は3歳のように絵を描くのに、50年かかった」というのがある。
そういう問題なのだろうと思う。
一度、認識の濾過紙を通さなければ、人間は自然には還れない。
人間的自然というのはそういうものだ。
そこでは、理論的には、sense と passion が根幹に据えられる。


これは、自然のなかから生まれるのではなく、作り出すものでもなく、自然のなかにあるものなのだ。僕たちは、それを認識すれば良い。
シュタイナーは、そう言っているのだ。


しかしながら、ピカソの7歳だか9歳だかの頃の絵を見たときは、あまりに完成された重厚な出来ばえに仰天した。
いろんな作家の作品がたくさん並んでいた部屋で、よっこらしょっと椅子にかけて眺めていたら、どうにも妙に気になる絵があったので、なんという名前の作家だろうと、近づいてみたらピカソだった。


確かに天才とはああいう人のことを言うのだろう。
同時に、なんて、いやらしい子どもではなかったろうかという気もする。
絵の先生がいたのかどうかは知らないが、先生よりうまかったのは間違いない。