パラダイス ナウ

 活動家の仲間からDVDがまわってきた。見始めると以前に見ていたことに気づいたが、内容は忘れていたので、また見た。

パラダイス ナウ(ハニ・アブ・アサド監督。2005年。フランス・ドイツ・オランダ・パレスチナ合作映画)
 YOUTUBEでは、9分割で英字幕。
 http://www.youtube.com/watch?v=4gkvj30aNiE&NR=1

 安定したカメラワークは素晴らしい。画面に空気の流れと力量を感じる。
 ざっくりとしたシーンをリアリティーを持ちながらも違和感なくつなげて、監督は映画を成功させている。このような心理描写を最小限に抑えたハードボイルド風の演出は、一般に難易度が高い。
 パレスチナ抵抗軍の司令官のシャツの汗染みなど、細かなデティールにもなかなかこだわりを見せていたが、惜しむべきは、パレスチナ難民が置かれた生活の描写、あるいは、侵略者であるイスラエルの横暴が、ほぼ検問の一点に集約されて、割愛されていたことだろうか。
 しかし、そこをあえて切り捨てたところが、この映画が映画として成立した理由ではなかろうかと思う。

 自らの意思のもと自爆テロに向かう二人は、攻撃延期によって、さらなる選択に迫られる。ひとりは、個人的な生への理由から、再び自爆という武力闘争を選ぶ。ひとりは、個人的な生への執着から自爆を拒否した。このふたりの気持ちが転換してゆく脚本も良くできている。
 自爆攻撃に向かうときのスーツをはじめとして、戦闘という非日常と平穏な日常との対比は、いたるところに散りばめられていて、いわゆる「ハレとケ」が実に念入りに構成されている。

 アッラーの神は攻撃的なのだろうか。自らの終着点を天国に置くのは、念仏を唱えて突撃する日本の一向一揆を連想させる。
 その宗教も補助的価値しかもたないことを露呈させ、社会的な義憤よりも、究極的には個人生活の心理状態が武力の選択をさせていて、しかし、同時に、その個人的な理由もまた社会的な構造が規定しているのだ、という確固たる人間観に支えられて、それは紙一重なのだということをこの映画は描いている。

 この映画において、テロを選択する善し悪しは問題ではないし、もともとたいした問題ではない。これは戦争なのだから。重要なのは、生きる行為における個人的な理由や意思の状況なのである。それがこの映画の普遍的なテーマなのであって、共感を持ちうる地平なのだと思う。
 映画鑑賞の仕方はそれぞれであってしかるべきだが、この映画が一般に流布されるとき、それを見落としていることが多いのではないかと思えた。

 僕が書きたいのはこんな小説だ。