親指シフトと共感能力

 ところで、WEBで何事かを書きつけるときには、明記しておかなければならないと思うことがある。
 それは、僕が親指シフト・ユーザーだということです。

 現在のキーボードは、FMV−KB232です。これは本来の親指シフトではなく、JISキーボードに近い形をしている。こんなものは邪道だ。たまたまキーボードにコーヒーをこぼしたので分解掃除をしたら元に戻らなくなった。そのとき、これしか売ってなかったのだ。
 往年の快適快速の打鍵は、やはりワープロ時代のオアシス・キーボードではなかったかと思っている。現代から比較すると反応が遅いにしても、操作性には優れていたように思うのだ。
 ワープロからパソコンの親指シフトに乗り換えたときのとまどいは、今もって何だったのかわからない。他社メーカーのパソコンにつないだせいだったのかもしれない。僕には富士通は高すぎた。
 違和感を解明するために何度も打鍵を比較したのだが、あまりに瞬時のことで、どんなに指をゆっくり動かしても、どこがどう違うのか全くわからなかった。なんらかの変換の仕方が違っていた。たぶん無変換キーの何かだったのだが。親指シフトは、その無変換キーで堕落した。
 それでも、そんなことは些細なことだ。そんなことより、親指シフトを日本のメイン・キーボードに選択しなかったことは、日本の現代史における重大な汚点なのである。根性なしのヘタレ富士通は恥を知るべきである。

 親指シフトの問題も、共産主義の問題も、神秘主義の問題も、全く同じ話である。
 わからない人には、全くわからない。どんなに説明しても理解は無理。絶対に無理。じぇんじぇん意味無し。なぜなら、それらは体感だからである。
 僕は、親指シフトを使わない人、つまりJISキーボードでローマ字打ちしている人は、キチガイじゃないかと思っている。狂っているとしか表現のしようがない。親指シフトユーザーは、多かれ少なかれ、みんなそう思っている。でも、語弊があるから言わないだけだ。カウンセラーの資格をもっている僕も、このことを書くのは、実は、これが初めてだ。

 世の中にはそういう話がたくさんあるのだということは、僕自身も折りにふれて思い出さなくてはいけないことだろうとは思う。他人を敬うということは、そういうことなのだろうと思う。わからなくても、認めることが大事なのだ。共感はできなくとも、認めることが大事なのだと思う。