「立ち上がるイラク帰還兵」

5月8日(土)から5月14日(金)
今池シネマテークにて、昼12時35分から1回上映。

 撮影監督の木村修さんが、懸命に宣伝に走っている。新左翼系無所属運動地帯へのチラシの配布を手配した。大阪から電話までもらった。
 右翼の人にも紹介してもいいが、紹介すると相手は高い確率で見に行かれるから、映画としての出来を予想すると気が引ける。

 こういうものは、映画の出来は二の次だ。映画を作るということを応援しなければならないからだ。芸術や創作に投資する意思の問題だ。

 かつて、劇場映画やテレビドラマ制作、産業映画の世界にいた僕としては、数秒のワンカットのために、どれだけ多くの人が動いて汗を流すものなのか、身をもって知っている。すると、字幕もおろそかにはできないし、金を出して映画を見るときには、僕が製作費を出してやってるんだ、という気持ちになる。

 今回の「立ち上がるイラク帰還兵」はドキュメンタリーだ。
 ドキュメントは、映画の価値がちょっと異なる。映画としての出来は二の次だというのは、そういう意味である。
 
 ドキュメンタリーは、どんなに見づらく汚い画面であっても「写っている」ということが大事なのだ。
 その意味では、プライベートの映像が価値をもつのと同様である。どんなにつまらない写真でも、そこには小さくとも何らかの世界がひらけているものだ。
 
 この手の強烈さで大作と評価されたのは、「ゆきゆきて神軍」や、ハリウッドでは「ディア・アメリカ」か。その方面は僕はあまり詳しくはない。「ゆきゆきて神軍」の原夫妻とも僕は同じ撮影現場にいたことがあるが、当時は、まだ映画を見ていなかった。
「立ち上がるイラク帰還兵」と似た趣旨では、ベトナム戦争当時のアメリカを含む両軍の司令参謀が集まって、何故、戦争をしたのかを検証したドキュメンタリーがあった。タイトルは忘れたが、イギリスBBC制作ではなかったか。日本ではNHKで放映された。
 その結末は、衝撃であった。日常の物資を輸送していただけのトラックの列が写った衛星画像を、アメリカ軍は軍備増援と間違って判断し、戦争に突入したのだということがわかった。「あの戦争はしなくてもいい戦争だった」そうアメリカ軍の司令官たちが言ったのだ。おいおい。正気か? と突っ込みたくなるような証言だった。


 ともあれ、今回の撮影監督は、どうも素人である。失礼なので、直接的には聞いてないが、どうもそのようである。もっとも発表した現在となっては、木村氏はプロであるが。
「プロのカメラマンは、映像がしっかりしている」と言われたその言葉だけで、僕は内心「はあ?」と思ったのだ。
 これが何を意味するのか。元プロとしては、ほとんど壊滅的な出来であることを予想させる。


 プロとアマの差は雲泥である。一般には、ほとんど一緒に見えるかもしれないが、雲泥である。動く映像ともなれば、その差は加速度的に拡大する。

 45日の長期ロケで制作費が5000万円になったために、ロールスーパーも入れられないほどお金に困ったという河瀬直美さんの『萌の朱雀』。'97年度のカンヌ国際映画祭のカメラドール(新人監督賞)を受賞した、この作品をご覧になった方はお分かりいただけるであろう。
 上映中に睡魔に襲われること必至。彼女は、映像制作のセオリーを無視している。というか、おそらく知らないのではないかとも思わせる。
 あのようなド素人のアホな作品にも、価値があることが世界的に立証されたというところに、映像の奥深さがある。
 
 強いて言えば、『萌の朱雀』は、「映像運動」なのである。
 駄作も平気で発表するアラーキーの写真と同じである。「運動」なのである。

 だから、『萌の朱雀』は長まわしなのだ。それが河瀬直美さんにわかっていたということが、彼女の凄さなのである。映像とは、時間の共有なのである。だから、カットしてはならない。そういう主張があったと僕は想像している。

 ハリウッドは100億円以上だ。名古屋のオアシス21と同じような製作費だ。そんなのと同じ感覚で見るなら失望する。
 今回の、「立ち上がるイラク帰還兵」の製作費は知らないが、こちらも、また、政治行動に近い勇敢な「運動」なのであろうと思う。 
 シネマテークへ行っての応援をお願いします。

 もしも、眠くならなかったら、大成功です。いい映画です。その難易度は低くはないですぞ。