震災情報と3・26について

太平洋全体にひろがった津波解析
http://www.youtube.com/watch?v=bIvYVkO_mh8&feature=related

ニューヨークタイムズ
http://www.nytimes.com/
(検索ワードはfukushima)

http://www.nytimes.com/2011/03/22/world/asia/22japan.html?hp
左側の小さな写真や映像をクリックしてください。日本では出ないものがあります。見るべきです!
写真直通アドレス(悲惨な現状に気分を悪くされる方は御注意くださいませ。しかし、海外ではこれが報道されています)
http://www.nytimes.com/interactive/2011/03/12/world/asia/20110312_japan.html?ref=asia#1


震災救援情報
助け合いジャパン(内閣官房公式)
http://tasukeaijapan.jp/

sinsai.info
http://www.sinsai.info/ushahidi/
SAVE JAPAN!
http://savejapan.simone-inc.com/index.html
オープンストリートマップ
http://openstreetmap.jp/crisis/press_release_sinsai_info_and_OSMFJ_symposium

グーグル
http://www.google.co.jp/intl/ja/crisisresponse/japanquake2011.html

支援用情報システム開発
https://spreadsheets1.google.com/ccc?hl=ja&key=t7n230-AUAw39umnShN7IyQ&hl=ja#gid=0

民間ブログ情報
関心空間
http://www.kanshin.com/keyword/3533290
個人ブログ
http://yamacha2.com/archives/6636


東京災害支援ネット(TOSSNET/とすねっと)
http://blog.goo.ne.jp/tossnet/e/521e2695e83b32c284ba317006550338


災害用伝言ダイヤル「171」
◆被災者の方
1.伝言ダイヤル「171」を押す。
2.自宅の電話番号を押す。
3.伝言を録音する。
◆安否を確認したい方
1.伝言ダイヤル「171」を押す。
2.安否を確認したい方の電話番号を押す。
3.録音された伝言を再生する


◇  ◇  ◇  ◇  ◇


1978年3月26日
三里塚(成田)空港管制塔占拠
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かくて管制塔は占拠された/三里塚廃港要求宣言の会 事務局長 鎌田 慧
http://www.asyura2.com/0505/nihon17/msg/688.html

 僕はこの快挙に歓喜して、遅ればせながら空港に向かった。滑走路を覆う金網までは到達したが、道に迷って機動隊に囲まれ職質を受けた。危険物は持っていなかったので放免。今から思えば、彼らは1万4千人の大警備陣を敷いた管制塔を破壊され、脱力感にうちひしがれていた頃だったと思う。
 僕は、ちょうど身辺が慌ただしい頃で、政治活動に参加しようと思いつつ、結局は中核派全学連の恐怖統治に失望し、運動に背を向けて、共産主義社会へ向けての勉学やバイトに勤しんだ。だから、僕は過激派ではなく、色恋に翻弄された市ヶ谷の詩人だった。

■「正義は管制塔占拠の瞬間も現在も私たちにある」
 僕は、社会に出て全力で働いた。そして、世の中に幻滅していた。もう、日本赤軍でも支援しようと思っていたところ、2001年4月に重信房子さんから解散宣言が出てしまった。
 その後、僕は医療過誤裁判に突入した。この重圧に耐えかねて、第四インターの残党が集うサイトを、しばしのよりどころとした。そこでのホームレス支援の報で、名古屋市役所への抗議に駆けつけ、デモ隊と役人による正面玄関でのせめぎ合いはテレビニュースに写ることになった。僕は、ホームレス(野宿労働者)の炊き出しや夜回りに参加して、毎月のカンパをした。支援の中心にいたある若い女性の姿に僕は衝撃を受けたのだ。夜回りでホームレスの寝床を見て僕は愕然とした。知らなかったこととはいえ、知らないことは罪なのだと思わずにはいられなかった。
 そうこうするうちに2005年、時効直前に、管制塔破壊代金の損害賠償請求がなされた。賠償金は、利息がついて1億円を越える金額となっていた。元被告たちに給与の差し押さえが始まった。
 カンパが募られた。「あのとき、拍手喝采を送った全ての人は、共謀共同正犯である」と呼びかけられた。1億円連帯基金運動のはじまりです。

テーマソングに選ばれた「人民の団結」

 
 僕は、忘れていた。あのときの占拠部隊が、拘留と懲役で10年以上も塀のなかにいたことを。この悔根は、いかんともしだかいものだった。
 占拠部隊は、当時21歳から31歳。法廷で名乗り出た指名手配の作戦指揮官は37歳。
 僕は、なけなしの金を投入して応援歌をつくったり、東京での集会に出かけた。僕は、独立自営に失敗してバイト生活の執筆体勢に入っていたので、家賃の支払いすら毎月必死で生活保護並の貧乏人だったが、通帳が空になるまで送金を続けた。


三里塚管制塔占拠闘争元被告への損害賠償請求執行に抗議する/元被告たちを支え三里塚現地の闘いに連帯しよう! 9.18集会(かめよんのブログより2005年9月18日(日))



↑お遊びでカウントされた7番センター僕トチロー


「管制塔被告連帯基金」は10月29日に目標を達成いたしました!
 カンパは、賠償額を達成しても止まらず、口座がなかなか閉められなかった。



↑航空局の職員は、賠償金の札束の受取りにあたって、最初から最後まで直立不動であった。そりゃそうでしょう。まだ滑走路をつくらないといけないんですから。くだらないことで怒らせたら、どうなるかわかったもんじゃない。成田空港反対闘争は今も続いています。

↑「管制塔元被告連帯基金運動四ヶ月の記録」1500円、管制塔元被告団・声明の会・連帯サイト発行 僕は関連ブログの編集担当でした。10日間ほどで印刷までこぎつけました。僕は印刷工程を熟知していましたからこの編集発行スケジュールに強く反対しましたが、編集本部は不眠不休でがんばりました。


↑管制塔占拠30周年記念に本が出版されました。この本では、最終章の連帯基金運動の座談会に参加させて頂き、この章の編集を行ないました。

↑このマンホールから出ました、と、占拠部隊の総隊長・元第四インター
 いつかの集会のあと、僕が名古屋に帰らないといけないから飲み会にはゆけないと別れを告げると、この隊長さんは、人通りのある往来の真ん中で「本当にありがとうございました!」と大声を出し、90度のおじきを僕にしてきました。びっくりしてしまいました。お礼を言いたいのは僕のほうなんです。

↑前夜から潜む地下道のなかで、「誰が死んでも恨みっこなしだ」と部隊に命じた占拠部隊・元プロ青同の隊長。
「1978・3・26 NARITA〜管制塔を占拠し、開港を阻止したオヤジたちの証言」
30周年記念出版編纂委員会・編著/結書房1300円+税
 服役後、それぞれの道を静かに歩いていた15人の戦士と2人の事後逮捕者。
 05年3月、国と空港公団が時効寸前に損害賠償訴訟の強制執行を開始した。平穏な市民生活を直撃した差押さえ。
 元被告たちはカンパ基金を創設し、インターネットを使って呼びかけた。激励の言葉がサイトを埋めつくした。入金のたびに増え続けるホームページの集計金額が、さらなる相乗効果を生んだ。全国から集まった1億300万円の現金が、航空局に叩きつけられた。
 三理塚闘争に心を寄せる人々の熱い思いが、またしても不可能を可能にした瞬間だった。国の執念が、仲間たちを再び強く結びつけたのは皮肉である。
(レイバーネットより抜粋転載)



 そうして、僕は、さまざまな人たちに貴重な知己を得ることができた。新左翼史上に名を連ねるセクトの幹部、内ゲバの殺し合いを生き抜いた筋金入りの活動家たち、頭脳と行動力と人倫に秀でたが故に警察に逮捕され刑務所に入った彼らに、僕ごときがさまざまな相談を持ちかけられ、それぞれの場面で協力を請われるに至ったことを、とてもありがたいことだと思っている。
 でも、ちょっと疲れました。